5.笑顔




あなたが望むのならば、私はそれを叶えます。



三席になっての生活は変わった。
仕事の量は増え、山のような書類に目が廻りそうになった。
仕事の質も上がり、下位の席官では手に負えない危険な任務が増した。
忙しい毎日であったが、の心は充実感で満ちていた。
やりがいがあるというのも理由のひとつだが、何よりも日番谷の存在が大きかった。
日番谷のそばにいられる。
それだけでは幸せだった。
今日も執務室では自分の仕事に勤しむの姿があった。
すぐそばには日番谷がいて、黙々とデスクワークに励んでいる。
だが、その眉間には皺が深く刻まれている。
そのわけは、今ここに乱菊の姿がないせいだった。
書類を届けに行ったきり戻ってこない乱菊。
それに対してイライラを抑えながら仕事をする日番谷。
どちらもいつものことなのでは気にしていない。
三席に慣れてきた証だろうと思う。
同時に、自惚れているなとも思うのだが。

「ふぅ…」

仕事がひと段落し、はようやく一息つくことができた。
日番谷のほうを見ると、真剣に仕事をしているのが分かった。
は、音を立てないように立ち上がり、給湯室へと向かう。
自分の分と日番谷の分のお茶を淹れて、来たときと同じように音を立てずに執務室へ戻ってきた。
そして、日番谷の机の上にお茶を置いた。

「少し休みませんか?」
「ああ。そうだな」

そう言って、日番谷はようやく手を止めた。
かなり凝ってしまったようで、日番谷が首や肩を軽く回すだけで音が鳴った。
そんな日番谷を見ながら、はニコッと笑って見せた。
少しでも日番谷の心が和むようにと思っているのだが、当の本人はの気持ちに気付いていないようだ。

「なんだ?」

首を傾げながら、日番谷はに尋ねる。

「いいえ。なんでもありません」

は首を横に振り、自分の席へと戻った。
速まる鼓動を感じながら、心の中で『平常心、平常心』と何度も自分に言い聞かせる。
日番谷のほうを見ることができなくて、自分の机の上を見る
そこには処理済みの書類が重ねられていた。
まだ心臓は落ち着いていないが、日番谷のほうを見る。
卓上には書類が、よりも多く重ねられていた。
『そろそろ提出しに行かなければ!』と心の中で意気込む。
そして、は両手をぎゅっと握りしめて、もう一度立ち上がり日番谷に言う。

「隊長、書類を提出してきます」
「量多いぞ?」
「大丈夫です!」

日番谷の机の上にある書類を抱えると、まずは自分の机に移動させた。
自分の書類と合わせて抱えて立ち上がる。
だが、両腕に圧し掛かる書類の量はかなり重いし、視界もなんとか前が見える程度だった。
そんなを見て、日番谷は小さく言う。

「おい、無理すんな」

心配して言っていると分かっているが、それでもは日番谷の言うことを聞こうとしなかった。
自分から『提出してくる』と言った以上、是が非でもやり通したかったのだ。

「大丈夫です!行ってきます!」

は元気に笑顔で執務室から出て行った。
だが、足取りはふらふらしていたし、書類で笑顔も見せることができなかった。
日番谷の心配は増し、行ってしまったの姿をじっと見つめていた。
執務室は途端に静かになり、日番谷を無音の空間へと吸い込まれていった。



「……重い…」

は壁に寄りかかり、休憩していた。
時間が経つごとに重くなっていき、の両腕は悲鳴を上げている。
腕だけでなく、だんだん腰も痛くなってきた気がするのは、気のせいではないだろう。
早く着いて欲しいと思うだったが、それはまだ先のようだった。
わずかに見える景色が、目的地である一番隊隊舎は遠くにあることをに告げている。

「はぁ…」

やっぱり日番谷の言うことを聞けばよかったと思う。
つまらない意地を張ってしまったとも思う。
後悔しても仕方がないのだが、そう思わずにはいられない。
書類の上に頭を乗せて、は小さく呟いた。


「馬鹿みたいだな…」
「本当にな」
「えっ?」


誰も聞いていない。
そう思っていたはずなのに、の耳に響いた第三者の声。
が顔を上げると、すぐそばに人が立っていた。
それは、


「日番谷隊長…」


の上司であり、今は執務室にいるはずの、日番谷だった。
日番谷は呆れたように、ため息混じりに言う。

「全く。無理すんなって言っただろ」

そう言って、日番谷はが抱えている書類の半分以上を持った。
両腕への負担が軽くなり、だいぶ楽になった
だが、その代わりに申し訳ない気持ちで心がいっぱいになった。
日番谷の役に立ちたかったのに、逆に迷惑を掛けてしまった。
そればかり頭に浮かんで、日番谷のことを見ることもできない。
そんなを見て、日番谷は小さくため息をついた。
そして、日番谷は小声で、だがはっきりと、に言う。

「お前の気持ちは分かる。俺の役に立ちたいと思ったんだろ?」
「…………」

は何も言えなくなってしまった。
その代わりに小さく頷き、肯定の意思を表した。
それを見て、日番谷はさらにため息をつき、続けて言う。

「だが、今回はどう考えても無理だろ。一番隊まで一人で持っていける量じゃねえ」
「…………」
「なんでも一人でやろうとすんな。もっと周りを頼れ」
「……すみません」

の口からようやく出てきたのは謝罪の言葉だった。
無力な自分が情けなくて、悔しかった。
けれど、そんなを包み込むように、日番谷は言う。

「こんな無理しなくても、十分俺の役に立っている。だから、そんな顔すんな。いつものように笑ってろ」
「たい…ちょ…」
「……行くぞ」

そう言うと、日番谷は一番隊へ向かって歩き出す。
その瞬間、頬を赤く染めた日番谷がの目に映った。
一瞬だけだったが、の心にしっかりと焼きついた。
はゆっくりと目を閉じて、それを心の中にある棚に大切にしまう。
目を開けると、自然と笑みが浮かんだ。
日番谷の優しい気持ちはに笑顔を取り戻した。

「おい。置いてくぞ」
「今、行きます!」

少し離れた場所で日番谷がのことを呼ぶ。
は日番谷のところへ元気に駆け出した。
自分の後を追うを見て、日番谷は小さく微笑んだ。
が日番谷の隣に来たときにはもう笑ってはいなかったのだが、
常に刻まれているはずの眉間の皺がなかった。
それを見たはますます嬉しくなって、満面の笑みを日番谷に見せた。
も日番谷も穏やかな気持ちで一番隊隊舎へ向かう。
空を見上げれば、綺麗な青空が広がっていた。



このとき、は知らなかった。
これから冷たい雨が降り注ぐことを。
そのとき、誰一人気付かなかった。
平和なんてものはどこにもないということを。







  


久しぶりのご登場です!
展開を進めるか否か結構迷ったんですけど、こんな感じになりました。(隊長を出せて大満足です!)
次回は原作に沿う形で話を展開します。
第一部はあと二話で終わる予定です。 (08.03.25)

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