あなたが望むのならば、私はそれを叶えます。
三席になっての生活は変わった。
仕事の量は増え、山のような書類に目が廻りそうになった。
仕事の質も上がり、下位の席官では手に負えない危険な任務が増した。
忙しい毎日であったが、の心は充実感で満ちていた。
やりがいがあるというのも理由のひとつだが、何よりも日番谷の存在が大きかった。
日番谷のそばにいられる。
それだけでは幸せだった。
今日も執務室では自分の仕事に勤しむの姿があった。
すぐそばには日番谷がいて、黙々とデスクワークに励んでいる。
だが、その眉間には皺が深く刻まれている。
そのわけは、今ここに乱菊の姿がないせいだった。
書類を届けに行ったきり戻ってこない乱菊。
それに対してイライラを抑えながら仕事をする日番谷。
どちらもいつものことなのでは気にしていない。
三席に慣れてきた証だろうと思う。
同時に、自惚れているなとも思うのだが。
「ふぅ…」
仕事がひと段落し、はようやく一息つくことができた。
日番谷のほうを見ると、真剣に仕事をしているのが分かった。
は、音を立てないように立ち上がり、給湯室へと向かう。
自分の分と日番谷の分のお茶を淹れて、来たときと同じように音を立てずに執務室へ戻ってきた。
そして、日番谷の机の上にお茶を置いた。
「少し休みませんか?」
「ああ。そうだな」
そう言って、日番谷はようやく手を止めた。
かなり凝ってしまったようで、日番谷が首や肩を軽く回すだけで音が鳴った。
そんな日番谷を見ながら、はニコッと笑って見せた。
少しでも日番谷の心が和むようにと思っているのだが、当の本人はの気持ちに気付いていないようだ。
「なんだ?」
首を傾げながら、日番谷はに尋ねる。
「いいえ。なんでもありません」
は首を横に振り、自分の席へと戻った。
速まる鼓動を感じながら、心の中で『平常心、平常心』と何度も自分に言い聞かせる。
日番谷のほうを見ることができなくて、自分の机の上を見る。
そこには処理済みの書類が重ねられていた。
まだ心臓は落ち着いていないが、日番谷のほうを見る。
卓上には書類が、よりも多く重ねられていた。
『そろそろ提出しに行かなければ!』と心の中で意気込む。
そして、は両手をぎゅっと握りしめて、もう一度立ち上がり日番谷に言う。
「隊長、書類を提出してきます」
「量多いぞ?」
「大丈夫です!」
日番谷の机の上にある書類を抱えると、まずは自分の机に移動させた。
自分の書類と合わせて抱えて立ち上がる。
だが、両腕に圧し掛かる書類の量はかなり重いし、視界もなんとか前が見える程度だった。
そんなを見て、日番谷は小さく言う。
「おい、無理すんな」
心配して言っていると分かっているが、それでもは日番谷の言うことを聞こうとしなかった。
自分から『提出してくる』と言った以上、是が非でもやり通したかったのだ。
「大丈夫です!行ってきます!」
は元気に笑顔で執務室から出て行った。
だが、足取りはふらふらしていたし、書類で笑顔も見せることができなかった。
日番谷の心配は増し、行ってしまったの姿をじっと見つめていた。
執務室は途端に静かになり、日番谷を無音の空間へと吸い込まれていった。
「……重い…」
は壁に寄りかかり、休憩していた。
時間が経つごとに重くなっていき、の両腕は悲鳴を上げている。
腕だけでなく、だんだん腰も痛くなってきた気がするのは、気のせいではないだろう。
早く着いて欲しいと思うだったが、それはまだ先のようだった。
わずかに見える景色が、目的地である一番隊隊舎は遠くにあることをに告げている。
「はぁ…」
やっぱり日番谷の言うことを聞けばよかったと思う。
つまらない意地を張ってしまったとも思う。
後悔しても仕方がないのだが、そう思わずにはいられない。
書類の上に頭を乗せて、は小さく呟いた。
「馬鹿みたいだな…」
「本当にな」
「えっ?」
誰も聞いていない。
そう思っていたはずなのに、の耳に響いた第三者の声。
が顔を上げると、すぐそばに人が立っていた。
それは、
「日番谷隊長…」
の上司であり、今は執務室にいるはずの、日番谷だった。
日番谷は呆れたように、ため息混じりに言う。
「全く。無理すんなって言っただろ」
そう言って、日番谷はが抱えている書類の半分以上を持った。
両腕への負担が軽くなり、だいぶ楽になった。
だが、その代わりに申し訳ない気持ちで心がいっぱいになった。
日番谷の役に立ちたかったのに、逆に迷惑を掛けてしまった。
そればかり頭に浮かんで、日番谷のことを見ることもできない。
そんなを見て、日番谷は小さくため息をついた。
そして、日番谷は小声で、だがはっきりと、に言う。
「お前の気持ちは分かる。俺の役に立ちたいと思ったんだろ?」
「…………」
は何も言えなくなってしまった。
その代わりに小さく頷き、肯定の意思を表した。
それを見て、日番谷はさらにため息をつき、続けて言う。
「だが、今回はどう考えても無理だろ。一番隊まで一人で持っていける量じゃねえ」
「…………」
「なんでも一人でやろうとすんな。もっと周りを頼れ」
「……すみません」
の口からようやく出てきたのは謝罪の言葉だった。
無力な自分が情けなくて、悔しかった。
けれど、そんなを包み込むように、日番谷は言う。
「こんな無理しなくても、十分俺の役に立っている。だから、そんな顔すんな。いつものように笑ってろ」
「たい…ちょ…」
「……行くぞ」
そう言うと、日番谷は一番隊へ向かって歩き出す。
その瞬間、頬を赤く染めた日番谷がの目に映った。
一瞬だけだったが、の心にしっかりと焼きついた。
はゆっくりと目を閉じて、それを心の中にある棚に大切にしまう。
目を開けると、自然と笑みが浮かんだ。
日番谷の優しい気持ちはに笑顔を取り戻した。
「おい。置いてくぞ」
「今、行きます!」
少し離れた場所で日番谷がのことを呼ぶ。
は日番谷のところへ元気に駆け出した。
自分の後を追うを見て、日番谷は小さく微笑んだ。
が日番谷の隣に来たときにはもう笑ってはいなかったのだが、
常に刻まれているはずの眉間の皺がなかった。
それを見たはますます嬉しくなって、満面の笑みを日番谷に見せた。
も日番谷も穏やかな気持ちで一番隊隊舎へ向かう。
空を見上げれば、綺麗な青空が広がっていた。
このとき、は知らなかった。
これから冷たい雨が降り注ぐことを。
そのとき、誰一人気付かなかった。
平和なんてものはどこにもないということを。
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