乱菊が二番側臣室から十番隊舎に戻ってきて最初に見た光景。
それは、またしてもいつものように仕事している日番谷とだった。
そんな二人に、乱菊は大きなため息をついた後、「何で仕事してるんです?」と尋ねた。
日番谷は書類から目をそらさずに淡々と答える。
「非常事態であっても書類は無くならねえからな。旅禍の捜索ばかりやってるわけにはいかないだろ」
「それは…そうですけど……」
「分かったらお前も仕事しろ」
異議を認めない日番谷の強い口調に、乱菊はに助けを求めた。
しかし、
「仕事してくださいね」
にもそう言われてしまった。しかも、は満面の笑みを浮かべている。
上司と部下から「仕事しろ」と言われ、乱菊はこの場から逃げ出したくなった。
本当に逃げてしまおうかと思ったが、
「逃げたら減給するからな」
日番谷に先手を打たれてしまった。
それに追い討ちをかけるように、
「もし逃げたら今度から乱菊さんの仕事のお手伝いしませんからね。絶対に」
にまでそんなことを言われてしまった。
ここから逃げたい気持ちは変わらない。だが、給料を減らされるのは嫌だ。に助けてもらえなくなるのはもっと嫌だ。
乱菊に残された道は、二つ。
減給され、見放されるのを覚悟して逃げ出すか。逃げ出したい気持ちを抑えて仕事するか。
二つに一つ。乱菊が選んだ道は、
「……分かりました。仕事しますよ…」
後者だった。実質それしかなかった。
渋々自分の席に着く乱菊。目の前には何十枚もの書類が積まれ、大きな山と化している。
乱菊は『真面目な上司と部下を持って羨ましい』と誰かに言われたことを思い出す。
だが、そんな二人に挟まれて仕事をするのは大変だ。心からそう思う乱菊だった。
最大級のため息をつき、仕事を始める乱菊。
何も言わずに、黙々と仕事を続ける日番谷。
そんな二人を見つめながら、は笑みを浮かべていた。
いつもと変わらない二人を見ているだけで、とても嬉しかったのだ。
今は緊急事態だが、だからこそ、普段の生活がどれほど大切なのかがよく分かった。
けれど、幸せな時間は長く続かないことも、よく知っていた。
いずれ終わりはやってくる。
それは、が新しい書類に手を伸ばした瞬間、やってきた。
震える背筋。途端に冷たくなっていくの身体。
原因は、小さくなっていく一つの霊圧を感じたせいだった。その霊圧は、恋次のものだった。
「?」
「?」
日番谷と乱菊に呼ばれて、はっとしたように二人のほうを見る。
そして、今にも泣きそうな顔で、は言う。
「恋次君が…」
けれど、ここまで言って、止まってしまった。
自分の気持ちを言葉にしようとするが、なかなか出てこない。
のどの辺りまで来ているのに、出てきてくれない。それがもどかしい。
『落ち着かなきゃ…』
そう思い、は目を閉じた。暗闇の中、できるだけ深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
そして、は目を開けて、自分が知った全てを吐き出した。
「阿散井副隊長が旅禍と交戦し、負傷しました」
「阿散井が?」
「そんな…。恋次がやられるなんて……」
「旅禍は逃走。今、三番隊が阿散井副隊長を隊舎に運んでいますが、重傷です」
精気は感じるが、とても弱々しい。小さな火がゆらゆらと揺れて、今にも消えてしまいそうなくらいに。
刹那。日番谷は顔を歪めた。
恋次を心配したのではない。恋次が負傷したと知り、彼のことを心配するを見て、心が揺らいでいるせいだった。
胸が痛い。日番谷の心の中にある醜い獣が暴れている。
への想いを知った今の日番谷は、それが何なのかすぐに分かった。この気持ちは嫉妬だった。
けれど、それを口にすることはなく、代わりの言葉を日番谷は言う。
それが自分で自分の首を絞めると分かっていたけれど。
「行ってこい。阿散井のことが心配なんだろ?」
本当は行って欲しくないけれど。本当は離したくなんかないけれど。
平気な振りをして、胸の痛みを我慢していた。
けれど、
「四番隊に行って上級救護班を要請してきます」
そう言っては日番谷に微笑んだ。
確かに恋次のことは心配だが、今、恋次のところに行ってもができることは何もない。
傷を癒すことも、痛みを代わることも、何一つできない。
『今、私ができることは、四番隊の人を呼ぶこと。それが私がすべきこと』
そうは思っていた。
それに、日番谷が自分の気持ちを抑えて「行ってこい」と言ったことにも気付いていた。
日番谷は何かを我慢していると思った。なんとなくだけど、はそう思った。
だからこそ、は自分がすべきことをすると決めたのだ。迷いがなかったと言えば、嘘になるが…。
は席を立ち、日番谷のほうを見て、言う。
「今、阿散井副隊長のところには吉良副隊長と雛森副隊長がいます。……桃ちゃん、きっとショックを受けていると思います。だから…お願いします」
「分かった。こっちは任せろ」
「ありがとうございます。それでは、行ってきます」
は日番谷にもう一度笑顔を見せて、四番隊舎へ向かった。
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