25.心(後編)




ずっと隠していた、本当の自分を。ずっと殺してきた、本当の気持ちを。
嘘ついてばかりだった、そんな自分とサヨナラすることを決めた。
もう全部終わりにしよう。だから、もう一度。



「はぁ…」

自室である隊首室に着くや否や、日番谷は大きな溜め息をついた。
目を閉じてゆっくりと肩の凝りをほぐすが、日番谷の眉間の皺は深々と刻まれたまま、一向に疲れがとれる気配はない。
それもその筈。今の時刻は零時を過ぎているのだ。
帰る時間がこんなに遅くなれば、疲労が頂点に達するのは当然だろう。
ましてや数時間後にはいつも通り朝がやって来て、山ほどある書類の山と格闘しなければならないだから。
それを考えただけで日番谷の気持ちは暗くなり、更に大きな溜め息をつく。
全ての原因は乱菊だった。


吉良が十番隊隊舎・執務室にやってきて、急遽酒宴を行うことになった。始めに言い出したのは勿論乱菊だ。
普段の日番谷なら「よそでやれ!」と言って参加者全員を追い出しただろうが、今回は違った。
少し前に乱菊の暗い表情を見てしまったから、以前のような明るい笑顔が見たいと思ったから。
けれど『認めるんじゃなかった…』と心から後悔したのはそれからまもなくのことだった。

「な…何だこりゃ?」

少しの間、席を外していた日番谷が執務室に戻ってきた時、そこはとんでもない状況だった。
床に散らばる、空となった、大量の酒瓶。
ふんどし一丁の吉良と檜佐木。
行き倒れのようにうつ伏せになった乱菊。
自分がいない間に何があったのか、容易に想像できた。考えただけで頭が痛くなったが…。

「ぶふぁあ!」
「どうした!松本!」
「隊長、知ってました?私、うつ伏せで寝ると息が出来ないんですよ!」
「知るか…」
「でも、仰向けだと鞘に引っ張られて痛いんですよね…」
「黙れ!」

その後、日番谷は執務室の片付けに取り掛かった。
宴会の後片付け―しかも一人きりで―は思っていた以上に大変で、こんな時間になってしまった。


「………」

回想が終わり、溜め息にしか聞こえない深呼吸をしながら、日番谷は周りの音に耳を傾けた。
だが、耳をすましても周りの音は全くない。
今、日番谷は外にいるのに、自分の呼吸も聞こえないくらい、とても静かだった。
しん、とした空間の中で日番谷は『独りしかいない』だと思いながら、立ち尽くしたまま中に入ることなく、溜め息をついた。
疲れきっている体のためにも今すぐ休むのが得策だろう。だが、日番谷はそれをしなかった。
部屋に入るのではなく屋根に登り、柔らかな布団ではなく固い瓦に腰を下ろした。
上を見上げるが、日番谷は何にも見えない。
目の前には美しい星空が広がっているのに、翡翠の瞳に映るのは闇だけだった。
日番谷は考えていた。"あの日"から、同じことを、ずっと。


惨殺された四十六室。
血で紅く染められた雛森。
煌めく狂刃と砕ける氷。
そして……。


音も立てずに吹き抜けた一陣の風。
日番谷を優しく撫で、甘い香りと共にやって来た。
刹那。

「こんばんは」

聞こえた声。
それを聞くや否や、はっと目を開ける日番谷。それが誰のものなのか、すぐに分かった。
ゆっくりと顔を上げると、次第に広くなっていく視野と比例するように呼吸が早くなっていく。
痛いくらいに、呼吸が出来なくなるくらいに、高鳴る鼓動。
目の前にいる人物を見た瞬間、それは頂点に達した。

「………」

日番谷に名前を呼ばれて、はとても嬉しそうに笑った。いつもと同じ、明るい笑顔だった。
だが、全てが同じには見えなかった。花の雰囲気から、の周りの空気から、何かが変わったと日番谷は思った。

「お久しぶりです。あと、夜遅くにすみません」

そんなことを考えていると、の方から話しかけてきた。
相変わらず温かい笑顔を浮かべている。
だが、そんなに対する日番谷の返答は沈黙だった。
何を話せばいいのだろう、と考えてしまったから。
考えれば考えるほど分からなくて、視線は下へ下へゆっくりと下がり、頭の中で言葉がぐるぐると回っている。
すると…。


「…私の顔、見たくないですか?」

"お前の顔、見たくねえ"


さっきよりも小さくなった声。
それと同時に聞こえた自分の声。
ハッと顔を上げた日番谷の瞳に映ったは笑っていた。
とても悲しそうな、とても寂しそうな、瞳だったけれど。
それを見て、日番谷は瞬時に悟った。
"行ってしまう"と。"もう二度と会えなくなる"と。直感的に理解した。
何かいわなければ、今すぐ何か言わなければ。
頭の中でそう思っても、焦れば焦るほど言葉は出てこない。
それは、たった一言なのに、そんなことも言えなかった。
だが、それでも……。


ぎゅっ


体のほうが先に動いていた。
離れようとしていたの手を掴んでいた。
"行くな"と、自分の気持ちを、伝えることができた。
は驚いた顔をしていたが、すぐに微笑んで、日番谷の隣に座った。
そうして、二人は空を見上げる。あの夜と同じように、あの夜とは違う想いで、空を見つめている。



の表情が日番谷の脳裏に浮かんだ。
次々と浮かぶ、日番谷が見てきた、の表情。
その一つ一つが、日番谷に勇気をくれた。
日番谷は、のことをまっすぐ見つめて、言う。

「お前にずっと言いたかったことがある」

どんなときも笑顔で、見ているだけで笑顔になれた。
どんなことにも一生懸命で、自分も頑張ろうと思えた。
そばにいないと落ち着かなくて、自分以外の誰かに渡したくなかった。

「俺は弱い。自分の身も守れないのに、自分以外のヤツを守れるわけがない。それでも、俺はお前を護りたい」

心臓の音が聞こえる。どくん、どくん、と強く脈打つ鼓動。
止まってしまえばいいのに、と思うくらい苦しい。
それでも、この痛みに耐えながら、日番谷は続けた。
自分の気持ちを、本当の想いを。今、伝えるために。


「俺はお前が好きだ」


さっきまでうるさかった心臓の音も、今は聞こえない。止まってしまったのだろうか、と本気で思った。
そんなことはありえないのに、そう錯覚してしまうくらい、静かだった。
長い時間が経った気がした。
は、日番谷のことをまっすぐ見つめたままだった。
日番谷も、そんなをただ見つめていた。
自分は全て言い終えたから。あとはの答えを待つだけだから。
そう思いながら、ただひたすら、の答えを待った。
そして……。


「あなたが私のことを護るなら、私はあなたのことを護ります」


そう言うと、はにっこりと笑った。
花が咲いたようなその微笑みは、の本当の笑顔だった。

「私もあなたが大好きです。だから、あなたのそばにいさせてください。これからもずっと」
「……今度は絶対に離さねえからな」



もう一度、誓おう。
もう二度と離れない、と。ともに歩み続ける、と。
今度こそ、心のままに生きよう。











 (09.08.26)

[戻]