二番隊隊士・大前田希千代にとって、上司であるは苦手な存在だ。
いつからなのか、どうしてなのか、大前田自身分からない。気付いたらそうなっていた、としか言いようがない。
苦手というか、天敵に近いだろう。に見られたら最後、蛇に睨まれた蛙のような気分になってしまうのだから。
自分の仕事を部下に押し付けるわ、職務を後回しにして白打の稽古をするわ。大前田がそばで見る限り、は自分勝手な人物だった。少なくともそのときの大前田はそう思っていた。
「ちょっと出かけてくるから。あとよろしくな」
そう言って執務室から出ていった。
『またサボりかよ…』
心の中ではそんなことを思いながら、油煎餅の方へ手を伸ばす大前田。
すると、その手は目的のものとは違う、何か別の固まりに触れた。大前田は、電流が全身を駆け巡るような感覚に襲われた。
それは"違和感"ではなく、"嫌な予感"だった。
『まさか』と思いながら、ゆっくりと視線を上げる大前田が目にしたもの、それは…。
「なんだこりゃ―!」
大量の書類を積み上げた、巨大な山だった。
大前田が大声で叫んだ瞬間、山のてっぺんにあった紙が大前田の前にふわりと着地した。それには、
『よろしくな!』
と書いてあった。
そうして大前田はようやくに仕事を押し付けられたことに気付いた。こういうことは今まで何度もあったが、
「なんだそりゃ―!!」
叫ばずにはいられなかった。
それから数日後。大前田は執務室でだらけていると、
「なー、大前田ー」
に声をかけられた。いつもならすぐに返事を返しているが、大前田はいつもと違った。
「…………」
返事をすることなく、近くにあった静霊廷通信を手にとったのだ。
ペラッとめくり、視線を落とす大前田。
「大前田希千代ー」
「…………」
もう一度呼ばれても、答えない。けれど、視線は雑誌の方を向いていても、その中身は読んでいない。
今の大前田はとても読めるような心境ではなかった。
「大前田日光太郎希千代ー」
「………」
ついに本名で呼ばれた。だが、それでも大前田は答えない。
代わりにペラッとめくると、その音が執務室に妙に大きく響いた。それだけで大前田の脈は急激に早くなる。
平常心を装おうとしているのだが、内心は怖くて堪らない。嫌な汗が全身から吹き出している。ただ、が諦めるのを待っていた。
「…………」
「…………」
の呼び掛けが止まった。『ようやく諦めた』と思い、ほっと胸を撫で下ろす大前田。
けれど…。
「君臨者よ、血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ…」
の口から発せられる言葉。
それが鬼道――しかも攻撃中心の破動で、高等鬼道である三十番台――の詠唱だと理解するや否や、大前田はの方を向いて思いきり叫んだ。
「ちょっと待てー!何しようとしてんすか!!」
「何って、鬼道の稽古に決まってんじゃん」
詠唱をやめ、ニッコリと微笑み、答える。しかも、手の平を大前田に向けたままだ。
それは、もしもが再び詠唱を始めれば、大前田の命はないということだ。大前田はさらに必死の説得を続ける。
「何で今そんなの始めるんすか!ここは執務室っすよ!」
「鬼道の稽古を始めたのは最近使ってなくて鈍ってる気がするから。そして、ここでやろうと思ったのは目の前にちょうどいい的があったからだ」
今、の目の前にあるのは大前田である。
つまり、が言う"ちょうどいい的"とは大前田ということで…。
「俺は的じゃねぇ!!」
眉間に皺を寄せて、拳を握り締めながら、大前田は力一杯叫び、抗議した。
続けて言おうとするけれど…。
「名前呼ばれても返事しない奴がよく言うよ」
「……うっ!」
痛いところを突かれ、胸を押さえ込む大前田。次はこれを言おうと準備していた言葉が小さくしぼんでいく。
いつもこうだ。の鋭い眼孔を目にするだけで、言葉が出てこなくなる。何にもできなくなってしまう。
すると、
「ま、お前の言いたいことは分かるよ。この前、仕事を押し付けたことに腹を立ててるんだろ?あのときは悪かったな」
そう言っては手の平を下げた。大前田は命の危機から回避したのだが、それどころではない。
の言葉を聞いて、大前田は自分の耳を疑った。
『あの人が俺に謝るなんて!自分勝手でわがままなあの人が!』
は不機嫌そうに顔を歪めて大前田を見ているが、それだけだった。
いつまで経っても大前田のところにの鉄拳が飛んでこなかった。
「あんなにたくさんの書類を一人で全部終わらせた大前田にご褒美だ!」
「…ご褒美?」
「お前を二番隊の副隊長に推薦しといたから」
「……はい?」
「近々正式に辞令が出るから。頑張れよ!」
「……マジでぇー!?」
「大前田っていう奴なんだけど、知ってるか?」
「知らん」
「まぁ、実力があるってわけじゃないからな」
「…おい。まさか、そんな奴を推薦する気じゃないだろうな?」
「いや、そのまさかだ」
それを聞くや否や、砕蜂は額に手を当てた。とは長い付き合いだし、数少ない友人だと思っている。
なので、の言動や行動には慣れていると砕蜂は思っていた。だが、さっきのの言葉は衝撃が大きすぎた。
頭がクラクラして、正直気分が悪い。
「砕蜂、どうした?顔色が悪いぞ?」
「…誰のせいだと思ってる」
「そいつな、実家が金持ちで、自分も商売してるから結構金持ってるんだ」
「…それがどうした」
「二番隊舎、そろそろ改築したほうがいいと思わない?それはもう、豪華絢爛に」
「……それもいいな」
「だろ?床暖とか、扉を自動開閉とか、いろいろできそうだよなー」
「……面白そうだな」
終