十番隊隊舎・執務室では、日番谷とが自分の仕事に励んでいた。
二人の間に会話はほとんどなく、ただ黙々と事務処理を行なっている。
始業時間から二時間以上経っているが、その手を止める素振りすら見せない。
そんな二人の間に挟まれて、
「あー!もうダメ!もう限界!!」
乱菊は大声を上げた。最初は万歳するような格好だったが、今は机に突っ伏しており、動こうとしない。
その言葉通り、もう限界だった。無言の空間にいるのも、仕事をするのも、全てが嫌になってしまったのだ。
「………」
日番谷は、ほんの少し視線を上げて乱菊の方を見たが、黙ったままだった。
いつもなら「うるせえ!」や「仕事しろ!」と叱咤するのに、今日はそれがない。
いつもと違う日番谷に乱菊は不安を覚えたが、
「乱菊さん、今日の三時のおやつは何がいいですか?」
の"おやつ"という言葉を聞いて、それもどこかに飛んでいってしまった。
の方を見て、満面の笑みを浮かべながら、言う。
「今日はお饅頭がいいなー」
「いいですねぇ。でも、戸棚になかったような…」
「買ってくるわ!待ってて!」
そう言うと、乱菊は執務室から出ていった。
瞬歩を使ったらしい。気付いたら乱菊の姿はなかった。
『全は急げ』というよりも『逃げるが勝ち』という方が正しいだろう。
誰も止めはしないのに、とは心の中で呟いた。そして、日番谷の方を見て、尋ねる。
「ちょっとワザとらしかったですか?」
「……少しな」
小さく、だが、はっきりと日番谷は言う。
仕事していた手をようやく止めて、凝った肩を軽くほぐした後、の方を見る。
その眼差しはとても優しくて、とても穏やかな微笑みを浮かべていた。
……だが、それもすぐに変わる。
「上手く追い出せたな」
「作戦成功ですね」
日番谷の言葉を聞いて、も同じように笑った。
日番谷と、二人とも悪戯が大好きな子供のように、笑い合った。
今までずっと話さなかったのも、黙々と仕事をしていたのも、全て乱菊を追い出すための作戦だったのだ。
「二人きりになって話したいことがある」
始業前には日番谷にそう言われた。そのために、乱菊を上手く執務室から追い出したいとも。
乱菊に対して罪悪感はあったが、日番谷にお願いされるのは初めてなので、嫌だとは言えなかった。
そんなやり取りを経て、無事に二人きりになった日番谷と。
日番谷はの目の前に立ち、懐からあるものを取り出した。
それは、曼珠沙華から受け取った、のお守りだった。
そのときは日番谷の瞳と同じ、綺麗な翡翠色だったが、今は違う。色は白に変わり、以前の温かさは感じない。
日番谷が四番隊・綜合救護詰所で目覚めたときにはこの状態だった。
どうしてそうなってしまったのか、原因はすぐに分かった。
地下議事堂で藍染と対峙して、その刃に倒れた時、日番谷の頭に浮かんだのは"死"だった。
薄れていく意識の中で、冷たくなっていく自分の身体。弱々しい鼓動はまるで"死の音"のようだった。
日番谷が『死ぬのか』と思い、死を受け入れようとした、そのとき。
「…じ……!…ち…!」
声が聞こえた。小さな、今にも泣きそうな声が聞こえた。
だが、何を言っているのか分からない。誰の声なのかも分からない。
それでも、その誰かは日番谷に何かを伝えようとしている。その声を知っているような気がする。
耳をすませて、その声を聞いた。
「死んじゃ嫌!隊長!」
今度は、はっきりと聞こえた。
誰の声なのか、すぐに分かった。刹那、日番谷の中で何かが溢れた。
どんなことにも一生懸命で、いつも楽しそうに笑っていた。
頑張りすぎることが多くて、心配で見てられなかった。
あのとき「周りに頼れ」と言ったけど、本当は"周りに"ではなく"俺に"と言いたかった。
誰にも見られないように一人で泣こうとする姿を見て、守りたいと思った。
初めて見る泣き顔はとても儚げでそれゆえに綺麗で、抱き締めそうになる自分自身を抑えていた。
笑った顔も、泣いた顔も、全部愛おしい。
日番谷の脳裏に浮かんだ人物。
日番谷の中に溢れた何かは、今まで過ごしてきた思い出、大切な記憶だった。
そのたびに胸の辺りが熱くなり、冷たい身体を暖めていく。日番谷を生へと導く光となった。
「卯ノ花が言っていた。これに籠められていたお前の治癒霊力が俺の傷を癒していた、と。これがなければ、今ここに俺はいない」
日番谷はお守りを大切に、柔らかく包みこむように右手で握り締めた。
そして、を見つめて、言う。
「ありがとう」
お守りをくれたことや命を助けてくれたことだけではない。
今、自分のそばにがいる。感じられる範囲に、手を伸ばせば届く場所に、がいる。
自分のそばに戻ってきてくれた。そのことがすごく嬉しくて、今の気持ちを伝えたかった。
何度『ありがとう』と声に出しても足りないくらい、感謝の気持ちが日番谷の心の中に溢れた。
すると、
きゅっ
は日番谷の右手を両手で包み、目を閉じた。
の温かい手。それが日番谷の手へゆっくりと伝わっていくのが分かった。
暫くして目を開けたは、小さく微笑み日番谷の掌を優しく開いた。
すると…。
「これは…」
お守りが元通りに、日番谷と同じ翡翠色に戻っていた。
は微笑んだままで日番谷に言う。
「これは兄上に教えてもらったんです」
すごく嬉しそうな、それなのにほんの少し寂しそうな、瞳だった。
そして、はゆっくりと話し始めた。自分の内にある引き出しから、兄と過ごした思い出を大切に取り出していく。
晄が死神になることを決めて、真央霊術院への入学が決まった、ある日。
「、ちょっと手出して」
は、晄にそう言われた通りに自分の手を晄の前に出した。
すると、晄はの掌に透明の水晶をのせて、の手を自分の手で優しく包みこむ。
晄がの掌を開くと、透明だった水晶は純白に染まっていた。
「わぁー!すごーい!」
「にあげる」
「いいの?」
晄がにっこりと微笑み頷くのを見て、は飛び上がるくらい喜んだ。
そして、掌にある水晶をぎゅっと握り締める。自分のとは違う温かさが伝わってくるのが分かった。
「あったかい」
「お守りだ。いつも持ってろよ?これを持ってれば俺がそばにいる感じがするだろ?」
「うん!兄上、ありがとう!」
目を閉じればの心の中にある晄との大切な思い出が浮かんでくる。
あれから長い月日が過ぎていったけれど、それだけは色褪せることなく輝いている。
「特別なことは何もしてません。守りたい人のことを強く思うだけ。そばにいれない自分の代わりに、大切な人を守ってほしいって」
そう言うと、は自分の胸にそっと手を当てた。
そこには晄からもらったお守りがある。
『ありがとう。兄上』
は心の中で、そう呟いた。
晄が死んで絶望の淵にいたが、今まで生きることができたのは、晄からもらったお守りのおかげだった。
日番谷の感謝の言葉を聴いて、そのことを知った。やっと気付くことができた。
晄との思い出と同じように、このお守りも色褪せることなく、のことを守っていたことを。
けれど……。
「これからはお前が俺のこと守るんだろ?」
はっと顔を上げる。視線の先には、日番谷がいる。
のことをまっすぐ見つめて、日番谷が微笑んでいる。
今までずっと嘘をついてきた。
仮面をつけて、自分の気持ちを隠していた。
そうして傷付けていた。周りの人も、自分自身も。
けれど、今は違う。これからは違う。
は、とても幸福そうに微笑み、答えた。
「あなたのそばにいます。これからもずっと」
大切な人がいる。大好きな人がいる。だからもう大丈夫。