いとしいひと(氷輪丸編)




十番隊隊舎の屋根の上で、我は一人佇んでいた。
執務室では主がいるが、今は仕事中だから。邪魔してはならないと思い、主のそばを離れた。
それに、そこには"あの人"がいるから。そう思ったからここにやって来た。
それなのに…。

「あ、氷輪丸だー」

彼女に見付かってしまった。
しかも、我の近くにやってきて、笑顔を浮かべる彼女。
その笑顔を見るだけで心が温かくなる。同時に胸が苦しくなる。
ずっとそばにいてほしいと願ってしまう。それが叶わない願いだと分かっているのに…。

「今日はいい天気だねー」
「…今は仕事中ではないのか?」
「そうなんだけどねー。ほら!休憩の時に食べるお菓子買ってきたの!あ、冬獅郎には内緒ね?」

そう言うと、人指し指を口元にあて、子どものように笑う。
そんな彼女をじっと見つめていた。たとえ胸が苦しくなっても、ずっと見つめていたかった。

「はい。これ、氷輪丸にあげる」
「我に…?」
「甘いもの食べると元気出るから。それに、甘納豆は冬獅郎の大好物だし」
「………」

すると、胸の苦しみが痛みに変わった。
主の名が耳に響いたせいか。それとも微笑みがさらに色付く彼女を目にしたせいか。
主のことを話す彼女は幸せそうだった。それを見て心が痛いと感じるのは、彼女の幸せが嬉しいとは思えなかったから。
刹那、

『触れたい。抱き締めたい』

我の中で何かが暴れ出してしまった。
ずっと抑えてきた感情が溢れて、我自身にも止められなくて、気付いたら我は彼女のことを押し倒していた。

「…氷輪丸?」

こんなに近くで彼女の顔を見るのは初めてだ。いつも、遠くから見つめていることしかできなかったから。
彼女はひどく困惑しているようだった。突然、硬く冷たい瓦の上に倒されたのだから、当然だと思う。
だが、そんな彼女を見て、胸が潰れそうになる。こんな感情は初めてだった。
……彼女の所為だ。刺すような痛みも、呼吸できなくなるくらいの苦しみも、全て。

「…貴女は酷い人だ。今までずっと堪えてきたのに。このままずっと自分の中にとどめておこうと思っていたのに。
……壊したくなどなかったのに」

主と彼女、二人の間に入れるとは思っていなかった。二人が幸せならそれでいいと思っていた。

『もういい。もう全部壊してしまおう。たとえ自分の居場所を失ったとしても…』

そう自分に言い聞かせた。彼女を、主の幸せを、全て壊そうと思った。
けれど、

「氷輪丸」

声が聞こえた。我の名を呼ぶ彼女の声が、我に届いた。
そうして我は彼女のことを正面から見ることができた。
彼女は、押し倒されてなお、我を見るその瞳は、とても温かくて優しかった。そして、

ぎゅっ

彼女は我を抱き締めた。その細い腕で、その小さい体で、我に温もりを与えている。
我の痛みが消えていく。それなのに、涙が溢れた。頬を伝い落ちていくそれを止めることができなかった。
彼女の胸の中で、母親が我が子を包み込むような深い愛情を感じたから。
それはずっと求めていた存在-モノ-だから。

「……

我は、はじめて彼女の名を呼んだ。
ずっと言葉にしたくてもできなかった、愛しい人の名を。



「ただいまー!」

と氷輪丸、二人が執務室に戻ってきた。
それを見て俺はまず『珍しい』と思った。
氷輪丸は執務室に近付こうとしなかったし、と一緒にいるところを見るのは初めてだったからだ。
そう思う反面で『何かあったのか?』と、そんな考えが頭をよぎった。
真相をに聞いて確かめたかったけど、

「休憩しましょー!」

松本の一声のせいでそれは叶わなかった。
と松本が給湯室でお茶を淹れてきて、ささやかなお茶会が始まった。

「みんなで食べるおやつは美味しいねー」

そう言うと、は満面の笑みを浮かべた。
とても嬉しそうな、本当に幸せそうな笑顔だった。

『……まっ、いいか』

俺は甘納豆を食べながら、の笑顔を眺めていた。










 (09.11.07)

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